「もしかして発達グレー研究所」 凸凹ハートの幸せを考えるブログ by QOLT

なじめない、生きにくい。そんな子達の青い鳥ドコー?志村!後ろ後ろ!

新担任の崖 優しく見下してあげよう

社会的に強者とされる存在を、無批判で認めることをしない子達がいます。

ここで言う社会的強者とは、学校の先生や、テレビに出てくる人たちなど。
たくさんの人達から認められていたり、人気があったりする人達のことです。


強者を強者として無批判に受け入れることをしない子は、園や学校に行くだけで混乱します。


「社会的強者をほぼ無批判に受け入れる感性」は、社会の荒波を乗り越えるにあたりとても役に立つものです。思春期までの心を守っているとも言えます。
それがない子達にとって、学校が、いかに生きづらい空間か……、想像してみてください。


生きづらさが募れば募るほど、許される/許されない/許す/許さない、幸せ/辛い、など経験のバランスが崩れます。
許すこと許さないことの難度が上がったり、幸福感が下がったりします。

そして「社会的強者のことほどかえって厳格な基準をもって選別し、批判的になってしまう」という傾向がどんどん強くなります。

そもそもバランス機能が弱いため、放置すると偏りは極まっていきます。
いずれ、「強者になびく奴らみんな腐ってる」となります。

なんかすごく生きづらそうだなと、おわかり頂けたのではないかと思います。


「長いものには巻かれろ」という行動規範を持たないことは、このように生きづらさにつながります。

しかし、長所としての活かし方があります。


社会的強者に盲目的に従うことをしない代わりに、「自分の価値観から鑑みて、有能であれば、尊重し敬愛する」という行動様式を持っています。


人間は、本能的に群れを作るのですが、その際、「群れをつくるパワー」の強い者の価値観に基づいて、同調圧力が働いたり、ヒエラルキーを形成したりしますよね。
この、群れる生物としての本能は、学校集団と深い関わりがあります。

同調圧力は、相互承認供給システムに付帯した機能です。
自分の価値観をベースに言動を選択している、もしかして……な子は、相互承認供給システムに参加しない子が多いです。

このため、クラスメイトなどの承認(同意、共感、時間の共有等)を受けるチャンスが圧倒的に少ない状態にあります。
そもそも、烏合の衆の承認に価値を見いだして無いですしね。


しかし、同時に、自分の助けを必要とする存在、自分より弱く下位な者のためなら頑張れる、という特性を隠し持っていることが多いのです。

それを大いに活かしましょう。
※弟妹やペットは、下位者でも弱者でもありません。
家庭内ヒエラルキーは、生殺与奪権利者である親からの愛でられ具合やダメ出し回数などで決まります。
このため、年少者、定型発達(感情優先主義)寄り、ペットのほうが上であることがほとんどです。

弟妹やペットがいるもしかしてっ子には、別途、戦略が必要です。ご連絡ください。


また、本能を抑え込む前頭葉の働きは、個人差が大きく、あまりにも強く本能を抑え込んでしまって不具合を起こす子と、本能を解放しすぎていて不具合を起こす子がいます。
後者のほうは、多くの場合「自分よりもヒエラルキー下位の者」を必要としています。


さて。
「人を下に見てはいけない」と教えるべきですよ……社会通念上はね。
が、それは、綺麗事や建前の中から本音を拾わない子、つまり言葉に対して厳密な子、ピュアな子を陥れる罠です。

もちろん、いわゆる見下した言動を、人前で取ることは控えるよう徹底すべきですよ!

しかし、「見下す」という感覚がわからないとか、絶対悪と認識して嫌悪しているような、ピュアすぎる子に対しては、
敢えて
「内心で見下すのは、あり」
「面従腹背、あり」
「そうやって、悪意から身を守り、バランスを取っている」
といった生きる知恵を教えるという選択肢があってよいと思います。

いじめ、いじめられも同様です。
純粋すぎると生きにくいのは明らかですね。

毒を以て毒を制す感覚、清濁併せ飲む、渇しても盗泉の水は……飲んで!
サバイバルにおいて、美しすぎる理念は身を滅ぼします。
少し話外れますが、
「いじめは絶対にしてはいけないことです。人権侵害です」
「相手が嫌だと思ったらいじめです」
という、いじめっ子側に向けて発信された綺麗事を真に受けて、
「自分は嫌だ。だからいじめられている」
「相手は、絶対にしてはいけないことを私にしている。自分は人権侵害されている!辛い!悲しい!生きられない!」と思ってしまうことが、かえってお子さんご自身を窮地に追い込んでしまうケース、あると思います。



長いものに巻かれない子は、目下の世話をする、目上に従う、同調する、などという、社会的に「当たり前に要求される望ましい言動」は身に付きにくいです。
なので、他者からの評価はイマイチ。イマイチなのでイライラ。

長いものに巻かれたほうがラクなのに、なぜ巻かれないのでしょう。
それは、学校文化における上下関係(年功序列、先生偉い)に合理性を感じておらず、
相手の本質を感じ取っているために、起こります。

もしかして…の子は、尊敬に値すると認める存在ならば年下でもリスペクトします。と同時に、年上でも軽視します。
そして、有形無形のストレスを受けます。

フツーは、そのストレスから逃れるために容易にポリシーを捨て、言動を修正します。
が、もしかして……の子にはその機能はありません。
しかも精神的ストレスの感受性が高いために、さらにストレス感受性が高まるという連鎖反応が起き、疲弊していきます。

介入し、この悪循環をおさめましょう。
たちきる、というよりは、ガスを抜きながら、折り合いをつけていくというのが現実的です。


社会的強者や定型を敵視するのではありませんよ。苦しみを減らすための緊急措置だと伝えてください。
苦しみが減っていくに従って、認められることが増えます。
単なる誉めではだめですよ、 アイデンティティーをピンポイントで認められるようになりますと、
先生には先生の、定型には定型の苦しみがあるということを理解するようになります。


学校で叱られて叱られて視野が狭くなっている子に、先生を尊敬しましょうね♥️と言っても無理です。

内心で見下す、「おかわいそうに」「お気の毒に」「おいたわしい」から始めましょう。
「ピュアな心をちょっと汚す」のです。
誤解を恐れずに言えば、適切な見下しは、寛容の始まりです。

寛容であることとそのフィードバックは心地よく、脳にとってご馳走。
もちろん条件はありますが、数年取り組めばクセになります。

なぜそのような言動をするのかという背景を親子で想定し、パターン学習をします。

「それでも私達には伺い知れない、やむにやまれぬご事情があるのでしょう。私たちに、他者が伺い知ることのできない思いがあるのと同じように」
というように、仕向けていきます。

(ハイストレスなときは無理ですよ!
なお、かまってちゃんとは異なるガチの自傷があるときなどは、人を憎み蔑むサバイバルスキルで心を守り、自責からの自滅を防ぐ必要性があります)

自動的に身に付ける見下しは、粗削りなため、不遜な態度に直結し、人間関係において害になりますが、
身に付けるプロセスによっては、自他に対する寛容さ、謙虚さに繋げることができます。


親子の精神が連動しやすい、自他の境界が曖昧な子ども時代は、はっきり言って集団生活=地獄です。
地獄は、同時に、「相手には相手の事情があるのだろう。私がそうであるように。」という寛容さをマスターするにあたって、最も有利なシチュエーションでもあります。


「先生の言うことを聞きなさい」と繰り返し言ってもわからない子ほど、効きます。
見下すのは絶対にいけないこと、と親御さんが信じて疑わないならば別ですが……

現実問題として、親御さんも、この方法を使わないとメンタルを保っていられないのでは……

自然に身に付けられない、崇高すぎる子には、教えてあげればいいじゃないか、教えないのは大人側がエゴなのではないか、というのが私の考えです。

ピュアな心をちょっと汚すと、かえってピュアで居続けることがたやすくなるのです。


こうして、社会的強者を内心で見下すことをマスターし、心(脳)に余裕ができますと、強者の問題行動(ヒステリックな言動や支離滅裂な行動)を、冷静に眺めることができるようになります。

冷静でいられれば、「ましな言動」を選択するためのワーキングメモリが解放されます。



親や先生がキレるとき、それは、ストレス負荷がかかりすぎて、パニックを起こしているということです。
その最中は、先生や親であっても、ヒエラルキー最下位にふさわしいわけです。

「お気の毒に」
「自分は勉強頑張って、もうちょっとましな仕事に就くぞ!」
「ダメな大人はみっともない、このことを身を賭して教えてくれる親/先生は尊い」と思ってあげるよう、促してみるのです。

ゲス、上等です。
サバイバルですから。


見下し感を出さない訓練、叱られ訓練は、忘れずに!