「もしかして発達グレー研究所」凸凹ハートの幸せを考えるブログ by QOLT

なじめない、生きにくい。そんな子達の青い鳥ドコー?志村!後ろ後ろ!

学校の怖さを分析しよう

こんにちは、ただのおばちゃんです。

 

さて、先日ご相談が届いた、お子さんの学校嫌いに悩む親御さん。軌道に乗ったそうです。まだまだわかりませんが、目つきが変わり輝き出しました、ありがとうございましたとのご報告。

 

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気を取り直して行きましょう!

 

 

☆こんなご相談

 

「うちの子が、学校に行ったり、行かなかったりしています。

学校を怖いと言うのです。

先生は優しく、クラスは落ち着いています。

いじめられているわけでもなく、勉強が苦手なわけでもありません。

見た目も、清潔感も、運動神経も、何の問題もありません。

学校を休めば、心配して連絡をくれる友達もいます。

一体、なぜ怖がるのでしょうか」という

コメントから、メール相談が始まりました。

 

その方のお子さんは、しばらく学校を強制的に休ませ、今は学校に行っています。

 

不特定多数向けのブログで、適切なアセスメントが可能とは思っておりません。

 

参考までにというよりは、価値観カードのコレクションのひとつとして、どうぞ

 

 

☆何が不快なのか

 

このケースでは、親御さんの「学校は楽しいはずなのに、なんで?!」という感覚が認められましたので、枠を外しましょうということにしました。

 

学校は、特段のトラブルがなければ楽しいはず。

原因を取り除けば楽しいはず。

 

という親御さんの思い込みを

 

 

学校は

・承認欲求モンスター同士が死闘を繰り広げる、承認奪い合いのバトル・ロワイアル状態
・コロコロ変わる暗黙の了解と感情によって地雷の位置が変わり続ける地雷原
・無政府状態か独裁政権か多数決至上主義等、共産主義と民主主義の悪いところ取り

 ・不快の原因はたくさんありすぎて特定は困難だが、「傾向と対策」は可能

 

に、切り替えて頂くためのコンサルティングをさせていただきました。

 

スタート地点の調整です。

 

 

学校を、怖い、嫌、キライ、学校行きたくない、そういう子はたくさんいます。この子達か間違っているとか、おかしいとか言うよりも、

「学校は、苦しみの中からいかに楽しみを見つけるかの訓練所。

面白きことのなき世を面白くって、高杉晋作先生も仰ってた」  

という共通認識を持つところから、親子関係をスタートし直した方が予後がいいと思います。

 

そのためには、親御さんは、発達障害寄りのお子さんをとりまく集団の修羅場ぶりを知る必要があります。 

 

ご自身にご経験がある方、帰国子女や留学経験お持ちの方は、すぐにストンと来るようです。

 

今回のケースでは、お母様ご自身は学校の不快感を上向きのエネルギーに変換していらした方でした。

お父様は、意識を飛ばすことで小学校での苦痛から心を守っていたようです。

 

そこで、発達障害寄りのお子さんをとりまく「学校=修羅場のエピソード」を知っていただくなどして、不安と不満を分類する力を養って頂きました。

 

不安に対しては、「幽霊の正体見たり。枯れ尾花」作戦と称し、集団心理について種明かしをしたり、分析を励ますなどの対応をおすすめしました。

 

 

☆聞いたなら解決しろよって論理

 

学校に行けない、行きたくない等の言動があったとき、なんでかな?どうしてかな?と反射的に突っ込んで尋ねてしまう親御さんや先生は、いらっしゃいませんか。

いったん言葉を飲み込んでみましょう。ともお伝えしました。

 

発達障害寄り、特に少しでも自閉のあるお子さんは、「何でも話してね、力になるから」という言葉にさえ、モヤモヤを追加することがあります。

 

モヤモヤが複雑になればなるほど、心の余裕がなくなり

「話しても、解決してくれなきゃ意味がない」

「解決もできないくせに、味方ぶるな」

「味方のふりした敵だ」

という方向に、思考が固まっていきがちだからです。

 

時間費やして、気を遣って、工夫して手間隙かけて歪ませるなんて、馬鹿馬鹿しいと思いませんか?!

そんなくらいなら、聞かない方がましです。

 

また、

親として、大人として、問題点を聞き出したい、知りたい、という欲求があることは、否定すべきではありません。その思いは、改善に寄与します。

 

しかし「子どものために、どうして嫌なのか理由を聞く」ということを絶対視している傾向があるとすれば、話は別です。

 

子どものためにと言いながら、その実、「聞きたいから聞く」という、親の、無自覚な、一方的な暴力である可能性があります。

自問自答してほしいのです。

 

聞きたいから聞く、剥き出しの私利私欲の責任を子どもに押し付けることは、おすすめできません。

 

聞き出した内容についての責任は、親は負ってはあげられないのです。

 

 

「話すことには責任を持つべきだ」とおっしゃる向きもあるでしょう。

確かに、発言に責任を持つべき、ということに異論を唱える者はほとんどいませんね。でも、それは平時における理想論です。

 

ごちゃごちゃの感情を処理できていないのに集団に居続けざるを得ない子は、拷問にかけられている心理とさほど変わらないと思います。

 

拷問にかけられてやむなく、拷問から逃れたい一心で口走ったことの責任を負わせられるほど、お子さんは、成熟しているでしょうか。

いや、無理でしょう。

 

何かを聞き出そうとすることで、抗いがたい負荷を子どもにかけてしまうかもしれないことを、自覚しなくてはいけません。

 

 

戦略的に、慎重に、緻密に、なおかつ、あっさり、あっけらかんと行うべき、ものすごく難度の高い介入、それが「聞く」という関わりなのです。

 

 

こういった形で、親御さんの頭をピコピコハンマーで連打しつつ(比喩です)

通話セッションを行い、「良い子育て」へのこだわりを緩和して頂きました。

 

 

その上で、差し支えなければ、研究所の過去記事いくつかを印刷して、お子さんに読んでもらってみてください、と書いたところ、

不機嫌なまま流し読みして机に放置していたかと思ったら、嘘みたいに元気になってました、と返信がありました。

 

お母さん、これ面白かった。

私が書いたのかと思った。

 

と話してくれたそうです。

 

 

ふんわり続きます。

 

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