世の中ほとんど 感謝教の信者です
恐らくすべての宗教が、感謝に言及しているのでは。
感謝という言動は、多くの文化、宗教において、望ましい行為として取り入れられています。
個人や集団の精神的な安定にとても重要な役割を持っていることがわかります。
学校の中を見ていると、感謝(ありがとう!)の多い先生のクラスでは、ありがとうがどんどん増えていきます。
人間関係もギスギスしにくくなります。
…ギスギスしたクラスは、最初からギスギスしているというよりは、感謝エネルギーの総量が少なく、どんどん感謝エネルギーが散逸してしまっているのだと言えます。
「係なんだから、仕事なんだから、やって当たり前」「やってほしかったことと違う」こういう雰囲気の中では、感謝エネルギーはすぐにしぼんでしまいます。
人が「それぐらい、 当たり前にやるべきことでしょ」思う権利は誰にでもあります。
そこには、「私は当たり前にこなしている」というある種の優越感があります。
人が、優越感ほしさに行う言動を、優越感以上のメリットなしに変えるのは困難です。
ですから、仕方ないとしましょう。
少なくとも自分個人は、プリント配ってもらったらありがとう、カーテン開閉ありがとう、給食当番さんありがとう、鉛筆拾ってもらったらありがとう、道を譲ってもらったらありがとう…
誰かが、特に、目立つ人がありがとうを口癖にすると、あちこちで連鎖的にありがとうが増えていく現象が起こります。
コツは、してくれた言動の結果 利益に感謝するのではなく、しようとした思いに感謝することです。
ありがた迷惑なことがあれば、ありがた4割、迷惑6割、などとして迷惑な面に注目しすぎないのがよいのです。
ありがとう!を言われることは、原則、脳にとっての快感です。
言うことも快感になります。
万年、流行語にしてしまいましょう。
ありがとう!の流行っている学級では、「ウザイ」「キモイ」「○ね」という、流行るメリットの少ない言葉が流行る余地はほぼないです。
これは家庭でも言えることだと思うのです。
感謝される経験を仕込み、「感謝されると気分がいい」「ありがとうっていいな」、この感覚をうっすらと身に付けさせた上で、感謝する側の存在も大切ですよ、ということを理解させます。
まるで宗教!と思われる方もいらっしゃるでしょう、その通りです。発達凸凹のお子さんと宗教的な概念は切っても切れない関係があります。
感謝教に勧誘しよう
頼って甘えて当たり前の年頃には教えたことがないのでベストタイミングははっきり言えないのですが、ありがとうを素直に言えなくなりつつある年頃に入る一歩手前がいいのかなと思います。
お礼をされる経験が少なく、お礼するばかりの立場は、要注意です。
世話になってしまって負い目に感じる、というだけの思考回路を組みやすく、感謝の示し方が暗くなります。 このため、精神的に不安定になりやすくなります。
部屋が暗くなってきたり、気温が不快、みたいテレビがあったり、というとき、お子さんは勝手にスイッチを付けると思います。
それのとき、「ありがとう!」と声をかけるのも、立派な感謝の習慣です。
※感謝されることの中毒になる子には、厳重なパッチを行う必要がありますのでご相談下さいね。
同じ、世話になるのでも、
「ありがとう!あなたって優しいね!」
のほうが
「すみませんすみません!ごめんなさい…」
よりも、よい人間関係を引き寄せやすくなることを経験させるとよいと思います。
(すみませんすみません…と言われたい人よりも、ありがとう!と言われたい人のほうが、善良で心の余裕がある確率が高いです)
お子さん自身の感謝される側としての経験をもとに、暗い感謝より、明るい感謝のほうが、優しい人の善意を受けやすくなるらしいということを学べるようにします。
世話になった、他者の時間を使わせてしまって申し訳ない、と落ち込むだけではもったいない
人に世話になるとき、相手の時間や労力を消費しています。
その点において申し訳ないという気持ちになるものです。
それはとても大切な気持ち、気配りです。
でも、だからといって、感謝すべき相手に対して、申し訳ない申し訳ないごめんなさいと思い込んでばかりなのは、損です。
お互いにとって。
「あなたは申し訳なさでいっぱいなのは、相手に迷惑をかけたと思うからだよね。確かに時間や労力を余計に遣わせてしまったからね。
ただ、相手は感謝されることで、自己肯定感(厳密に言うと自己効用感)についてプラスの効果を受け取っているという面もあるのよ。
完全に一方的に迷惑だけかけている、ということではないと思ってよい。
卑屈にならず、明るくお礼を言うといいよ」
と、知らせてたあげた方がいいかもしれません。
優しい人にお世話になってばかりで自信を無くしそうなとき、
ああ、今自分は、優しい相手の自己肯定感(厳密には自己効用感)に寄与するという、ちっぽけなようだけれども大切な役割を果たしているのかもしれないな、と感じられますように。